安土桃山時代
特徴
織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代。権力を握っていた織田信長と豊臣秀吉の2人の頭文字をとって織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。足利義昭が織田信長に追われて室町幕府が滅亡してから,豊臣秀吉政権がおわり、徳川家康が江戸幕府を開くまでの約 30年間の時代のこと。信長の居城は安土城であり、秀吉の居城である伏見城がのちに桃山と称したところから安土桃山時代となった。
重要ワード
室町幕府の滅亡・・・織田信長が延暦寺の焼き討ちを行い、寺院勢力をおさえる。この後、権力の回復を目指した足利義昭と対立、義昭を京都から追放し室町幕府を終わらせる
長篠の戦い・・・織田・徳川連合軍が戦国最強と言われた武田勝頼の騎馬隊を圧勝した戦い、足軽鉄砲隊によって鉄砲が武器として使われた
鉄砲・・・1543年に九州の南種子島に流れ着いた中国船に乗っていたポルトガル人によって伝来。ポルトガル人の持っていた2丁の鉄砲を島主の種子島時堯(ときたか)が一丁2000両で買い取る。現在の価値にして約2億円といわれている。鉄砲は、瞬く間に各地に伝えられ、戦国時代の戦い方を一変させる。 この鉄砲は、火縄銃と呼ばれる。
安土城・・・滋賀県近江八幡市に織田信長により築城された城。当時の木造高層建築で日本一の天主を誇った。
楽市・楽座・・・戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦国大名が領地内の商工業を活性化させ、城下町を繁栄させる為に行った経済政策。 商売を行う際の税金を免除(楽市)し、一部の商工業者団体の特権をなくすこと(楽座)で誰もが自由に商売を行えるようにした
明智光秀・・・戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将・大名。織田氏の重臣であり、主君であった織田信長に従い、天下統一事業に貢献した。1582年に京都の本能寺において主君であった織田信長を討ち(本能寺の変)天下を取ったが直後に、中国大返しで戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れた。これを三日天下という。
本能寺の変・・・織田信長が京都の本能寺で家臣であった明智光秀に攻められ自害した。この後、豊臣秀吉は対戦中だった毛利氏と停戦をはかり、山崎の戦で明智光秀を討つ
豊臣秀吉・・・尾張国(愛知県)の下層民の家の生まれ。当初、今川家に仕えるが出奔した後に織田信長に仕官。従来にはない斬新な奇策や政策で頭角を現す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれた際、中国大返しにより京へと戻り山崎の戦いで光秀を破り、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得る。その後、大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。
関白・・・成人の天皇を補佐する官職
太閤検地・・・豊臣秀吉が行った全国的な土地検査、田畑の面積・等級・石高(収穫高)を調べ、耕作者を検地帳に登録して納税制とした。これにより荘園制が完全に消滅する
全国統一・・・小田原(関東)の北条氏を討ち、東北の伊達氏を従え、全国を統一、戦国時代が終わる。秀吉は関白・太政大臣の位について、朝廷の権威を利用しながら政治をおこなった
刀狩・・・農民から刀、弓、やり、鉄砲などの武器を取り上げ、一揆を防ごうとした。太閤検地と刀狩によって兵農分離が進み、武士・農民・町人の身分の違いが明確となったこれにより兵農分離が進む。
バテレン追放令・・・豊臣秀吉がキリスト教が国内統一の妨げになると考え、キリスト教宣教師の国外追放を命じた。貿易は許可されていたため、キリスト教の禁止は徹底されなかった
文禄の役・・・15万の大軍を送り首都漢城(はんそん)(現在のソウル)を占領、朝鮮半島の北部まで進軍する
慶長の役・・・文禄の役の和平交渉がまとまらず、ふたたび出兵。翌年秀吉が病死したため日本軍が引き上げた。この失敗により豊臣氏の没落が早まった。朝鮮人陶工が連行され、有田などに技術が伝わる(有田焼)
関ヶ原の戦い・・豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。
(安土)桃山文化
- 城郭
- 障壁画(狩野永徳)
- 茶道、侘び茶(千利休)
- 陶磁器
- 浄瑠璃
- 歌舞伎踊り
- 南蛮文化
日本の歴史〜YouTube大学
戦国〜江戸時代 豊臣秀吉と徳川家康
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