歴史年表
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先土器時代(旧石器時代)
先土器時代(旧石器時代)⬅
450万年前 | 猿人(アウストラロピテクス)の出現 |
数10万年前 | 原人(ジャワ原人、北京原人)火、言語を使用の出現
旧人(ネアンデルタール人)の出現 |
10万年前 | 砂原遺跡11万~12万年前で国内最古(島根県)
岩宿遺跡先土器時代の日本列島に人類が居住していたことを証明、相沢忠洋によって発見される(群馬県)🎦岩宿遺跡と相沢忠洋
金取遺跡(岩手県) |
5~3万年前 | 新人(クロマニョン人)洞くつ壁画を描くの出現 |
1万年前 | 大陸から離れて大陸と陸続きだった際、北からマンモス像、南方からナウマン像が渡ってきたと考えられている日本列島が形成される |
※旧石器時代→打製石器石を割って作った簡単な石器を使用していた時代
縄文時代
縄文時代⬅
1万年前 | 日本列島が形成される |
紀元前3000~2000年 | 4大文明メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明が起こる 📝 |
紀元前1000年 | 大森貝塚(東京都)🎦大森貝塚とモース博士 |
紀元前800年 | ギリシャでポリス古代ギリシアにおいて、自立した国家を形成して市民による民主政が行われていた都市のことが成立 |
紀元前500年 (~殷・周・春秋・戦国) | インドで釈迦(シャカ)インドのシャカ族の王子、29歳で出家し苦行などを通して悟りを開くが仏教を起こす 中国で孔子などの諸子百家中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」は孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子などの人物を指す。「百家」は儒家・道家・墨家・名家・法家などの学派を指す。があらわれる |
紀元前334年 | アレクサンドロス大王マケドニアの大王、エジプトを占領後ペルシャ帝国を滅ぼした。ギリシャからインドにわたる大帝国をつくり、ギリシャ文化は東方に伝わり、ヘレニズム文化へ発展が東方遠征 |
弥生時代
弥生時代⬅
紀元前221年(秦~) | 秦の始皇帝中国で紀元前8世紀頃から続いた春秋戦国時代の後、秦が中国を統一。始皇帝の死後反乱がおこり、15年ほどで滅ぶが中国を統一 |
紀元前202年(前漢~) | 前漢が中国を統一 |
紀元前27年(後漢~) | ローマ帝国の成立(~後395) |
紀元前4年 | イエス=キリストキリスト教の創始者、ユダヤ人、パレスチナ地方に生まれ30歳ころから布教活動を行う。普遍的な愛を説き、ユダヤ教徒やローマ帝国から迫害を受け、十字架にかけられ処刑されるの誕生 |
(紀元後)57年 | 北九州の奴国(なのくに)の王が後漢に使いを送り、金印後漢書の「東夷伝」に記録が残っている。「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印が江戸時代福岡県志賀島で発見されるを受け取る→東西文化の交流(シルクロード)🎦漢書地理志・後漢書東夷伝、魏志倭人伝から見る古代日本 |
239年(三国・晋) | 邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送り、金印印綬「親魏倭王」(魏が卑弥呼を倭の王と認めた証拠)、魏志倭人伝に記載、卑弥呼は呪術により国を治めていた。所在地は北九州説と大和(奈良)説があるを受け取る🎦漢書地理志・後漢書東夷伝、魏志倭人伝から見る古代日本 |
古墳時代
古墳時代⬅
~391(五胡十六国) | 大和政権の統一がすすむ |
391年(南北朝~) | 大和政権百済、新羅を破る、大陸の生産技術と鉄資源の確保が目的の倭軍が朝鮮半島に出兵 |
478年 | 倭武王「宋書」倭国伝に倭の五王が南朝に使いを送ったと記載、倭の五王は(讃・珍・済・興・武)の5人の王、南朝の権威を元に朝鮮半島での政治的優位性を確保するのが目的が南朝に使いを送る |
538年(552年) | 百済(くだら(ペクチェ))から仏教清明王から仏像と経典がおくられ正式に仏教が伝来、蘇我氏が日本初の寺院飛鳥寺を建立、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の間で争いがおこるが伝わる🎦蘇我氏と物部氏 |
587年 | 蘇我氏が物部氏を滅ぼす |
589年(隋~) | 隋南北に分かれていた中国を隋の文帝(楊堅)が統一、二代皇帝煬帝は南北をつなぐ大運河を建設する、高句麗遠征に失敗、各地で反乱がおこり唐に滅ぼされる(618年)が中国を統一 |
飛鳥時代
飛鳥時代⬅
592年(~隋~) | 蘇我馬子が崇峻天皇を殺す🎦蘇我氏と物部氏 |
593年 | 聖徳太子が推古天皇の摂政となる🎦推古天皇 |
603年 | 冠位十二階聖徳太子による新しい人事制度、有能な人物であれば朝廷が直接に官僚として採用し、朝廷内での身分を冠の色で12のに分けたの制定 |
604年 | 十七条の憲法冠位十二階によって様々な人物が朝廷で働くさいに必要な心構えやルールをまとめたものの制定 |
607年 | 小野妹子が遣隋使聖徳太子が隋と対等の外交を行い、中国の技術や文化、制度を取り入れるために派遣として隋に派遣される |
618年(唐~) | 唐長安(今の西安)に都をおく、律令を制定し、土地制度では均田制、税制では租庸調制、兵制では府兵制を整え世界的な帝国になったが中国を統一 |
630年 | 第一回遣唐使犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らが派遣される、630~894年まで十数回派遣され、唐の文化や制度を日本に伝えたの派遣 |
645年 | 大化の改新中大兄皇子と中臣鎌足が朝廷内で権力をふるっていた蘇我蝦夷、蘇我入鹿の父子を倒して天皇中心の中央集権をめざした、翌年に改新の詔(かいしんのみことのり)(天皇中心の政治)が出され、公地公民(国の土地、国の民)や班田収授法(国から田を貸し出し、税を納めさせる)、税制(租庸調)などの方針がだされる |
660年 | 百済が滅亡朝鮮半島西部の国である百済は、唐と新羅の連合軍に敗れ滅亡した、百済は日本と友好関係にあり、学者や僧、技術者などの交流があり仏教も伝わった、この戦いで日本へ救援要請をだし白村江の戦いがおこるする |
663年 | 白村江(はくすきのえ(はくそんこう))百済からの救援要請を受け、朝鮮半島にいったが、唐と新羅の連合軍に敗れる、大陸との関係を失い、日本はこの後、国内の政治改革に力を注ぐの戦い |
672年 | 壬申の乱天智天皇の死後におこった、天皇の弟の大海人皇子と子どもの大友皇子の皇位をめぐる争い、大海人皇子が勝ち天武天皇となった、国史の編纂として古事記をつくり、律令政治を推進した |
676年 | 新羅(しるら)が朝鮮を統一 |
683年 | 富本銭がつくられる(日本で最初につくられたと推定される銭貨) |
701年 | 大宝律令唐の制度に習ってつくられた刑法や民放など政治を行うための取り決め、租庸調の税制、成年男子から選ばれる防人、衛士などが規定されるの制定 |
708年(~唐~) | 武蔵国が和銅を献上され、元号が”和銅”になる |
奈良時代
奈良時代⬅
710年(~唐~) | 平城京藤原京から奈良に都が移される、都では和同開珎が使われていたに都を移す |
723年 | 三世一身法農民の逃亡や自然災害などで田が荒れ、口分田が不足したため、新しく開墾した田地を3世代まで私有を認めた、これにより公地公民の原則がくずれるが出される |
743年 | 墾田永年私財法一定の面積に限り、開墾した土地の永久私有を認めた、大寺院や貴族が私有地を広げ公地公民の原則がくずれた、私有地は後で荘園と呼ばれるようになるが出される |
754年 | 鑑真が来日🎦鑑真ってどんな人 |
784年 | 長岡京に都を移す |
794年(~唐~) | 平安京桓武天皇により移動、この後の時代を平安時代という、1869年に東京に都を移すまで約1100年間日本の都となるに都を移す |
平安時代
平安時代⬅
794年(~唐~) | 平安京桓武天皇により移動、この後の時代を平安時代という、1869年に東京に都を移すまで約1100年間日本の都となるに都を移す |
802年 | 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が胆沢城を築く |
866年 | 藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂政となる |
887年 | 藤原基経(ふじわらのもとつね)が関白となる |
894年 | 遣唐使菅原道真が航海の危険と唐の衰退を理由に停止、唐文化の影響が後退し、国風文化が栄えるが停止される |
907年(五代~) | 唐が滅びる唐の滅亡後数十年争乱が続き、宋が中国を統一する |
935年 | 平将門の乱関東で平将門が領地争いからおじにあたる国香を殺し、常陸国の役所を襲撃、関東を支配した将門は自らを新皇と称して自分の一族を国司に任命した(~940年)🎦平将門の乱 |
939年 | 藤原純友の乱(~941年)🎦藤原純友 |
960年(宋~) | 宋唐の滅亡後、5つの王朝と周辺の10の国(五代十国)の争乱を経て、宋(北宋)が建国、979年に中国を統一、北宋は遼や金に圧迫され、1127年に都を南に移す、これを南宋というが起こる |
1016年 | 藤原道長藤原氏が勢力を最ものばした頃、藤原氏は娘を天皇に嫁がせることで政治の実権を握った。これを摂関政治というが摂政となる🎦藤原野道長 |
1051年 | 前九年の役陸奥国の豪族安倍氏が国司に対しておこした反乱、源頼義・義家の父子が東国の武士を率いて、出羽国の豪族清原氏の助けを借りて平定した。以降、清原氏が安倍氏に代わって栄える(~1062年)🎦前九年の役 |
1069年 | 後三条天皇の荘園整理藤原氏と親戚関係がなく、摂関政治の影響が小さかったため、後三条天皇が自らの政治を行った、荘園整理令をだし、記録書を設けて基準に合わない荘園を取り締まった。これにより藤原氏の力は衰えていく🎦摂関政治の衰退 |
1083年 | 後三年の役東北地方の豪族であった清原氏の内紛、源義家が関東の武士を率いて沈める。その後、清原氏に代わり、奥州藤原氏が支配するようになり、平泉に中尊寺金色堂を建造する(~1087年)🎦後三年の役 |
1086年 | 白河上皇が院政天皇退位後も上皇として摂政・関白をおさえて政治の実権をにぎること、白河上皇は出家して法皇となってからも院で政治を続け、40年以上院政を行った。これにより摂関家の勢力は衰える(を始める |
1156年 | 保元の乱鳥羽法皇の死後、皇位継承をめぐっておこった崇徳上皇と後白河天皇の対立、天皇方が平清盛や源義朝らの活躍で勝利する。この後、武士が政界に進出していく🎦保元の乱 |
1159年 | 平治の乱保元の乱の後におこった平清盛と源義朝の勢力争い、源義朝が破れ、その子源頼朝は伊豆(静岡県)に流された。平清盛は1167年に太政大臣になり、平氏が全盛の時代となる🎦平治の乱 |
1167年 | 平清盛武士として初めて太政大臣となった。娘である徳子を高倉天皇のきさきにし、その子を安徳天皇として即位させ、自分は天皇の祖父として権力をふるったが太政大臣になる🎦全盛期の平家 |
1185年 | 壇ノ浦の戦い1180年に以仁王から「平氏を討て」との命令を受けた源頼朝が伊豆で兵をあげる、頼朝の派遣した義経らが一の谷の戦いや屋島の戦いで平氏を破り、壇ノ浦の戦いでついに平氏を滅ぼしたで平氏が滅びる🎦源氏と平氏、🎦壇ノ浦の戦い |
1185年 | 源頼朝が守護・地頭平氏を滅ぼした後、頼朝と義経が争い(後白河法皇によって朝敵となるなど翻弄される)がおき頼朝が勝利、義経逮捕を口実に国ごとに守護(軍事・警察や御家人を統率)、荘園・公領ごとに地頭(荘園・公領の管理や年貢の徴収)を置いたをおく🎦守護地頭設置の理由 |
1192年(~宋~) | 源頼朝が征夷大将軍後白河法皇の死後任命される、この後の時代を鎌倉時代という。将軍と御家人は土地を仲立ちとして御恩とご奉公という主従関係で結ばれていたになる |
鎌倉時代
鎌倉時代⬅
1192年(~宋~) | 源頼朝が征夷大将軍後白河法皇の死後任命される、この後の時代を鎌倉時代という。将軍と御家人は土地を仲立ちとして御恩とご奉公(武功を立てれば、土地などがもらえる)という主従関係で結ばれていたになる🎦源頼朝の政治 |
1206年(モンゴル攻める→元~) | チンギス=ハンモンゴル帝国を築き、中央アジアと南ロシアを征服、その後モンゴル帝国は分裂したが、フビライ=ハンが国号を元と改め、都を大都(北京)に移したがモンゴルを統一 |
1219年 | 源氏が3代で滅びる |
1221年 | 承久の乱後鳥羽上皇が朝廷の勢力回復を図るために北条義時追討の命令を全国に発する、対する幕府側の北条雅子は尼将軍と呼ばれ、御家人たちに幕府側の結束を訴えた。結果幕府側が勝利し、後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に流された。この後、幕府は京都に六波羅探題を設置し、朝廷の監視を行うがおこる🎦承久の乱 |
1232年 | 御成敗式目(貞永式目)51か条からなる最初の武家法。御家人と荘園領主の土地をめぐる争いが増えたため、裁判の基準を御家人に示す必要があり、執権である北条泰時が武家社会の習慣や裁判の先例を元に制定の制定🎦北条泰時と御成敗式目 |
1274年 | 文永の役フビライ=ハンが日本を従えようと使者を送るが、執権北条時宗がこれを拒否し争いになる。幕府軍は元軍の集団戦法や火器に苦戦するが、高麗(朝鮮)の人を兵士として送り、士気も低かった元軍が退いたとされる(元寇)🎦文永の役 |
1281年 | 弘安の役幕府が元の再来に備えて博多湾に防塁(石で組んだ壁)を築き、上陸を阻止、また暴風雨によって元の船が沈み幕府側が勝利(元寇)🎦弘安の役 |
1297年 | 永仁の徳政令元寇を退けたが、勝っても土地が手に入ったわけではないため、御恩とご奉公が崩壊。多くの戦費負担で生活に困った御家人が領地を質に入れたり売ったりした。幕府は御家人を救うため、領地をタダで元の持ち主に変えさせる徳政令をだすが、その影響で御家人に金を貸すものがいなくなった。(土地を分割相続することで御家人の生活は苦しくなっていた(田分け))が出る🎦永仁の徳政令 |
1333年(~元~) | 鎌倉幕府が滅びる後醍醐天皇を中心に倒幕計画が進められ、有力な御家人である足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とす。幕府滅亡後、後醍醐天皇によって建武の新政(~1336年)(後醍醐天皇が行った政治、恩賞問題が処理できず、政治が腐敗、公正公平な政治がえできず天皇の権力が失われる)がはじまるが、やがて公武が対立する🎦建武の新政 🎦鎌倉幕府滅亡 |
南北朝時代(室町時代)
南北朝時代(室町時代)⬅
1333年(~元~) | 鎌倉幕府が滅びる後醍醐天皇を中心に倒幕計画が進められ、有力な御家人である足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とす。幕府滅亡後、後醍醐天皇によって建武の新政(~1336年)(後醍醐天皇が行った政治、恩賞問題が処理できず、政治が腐敗、公正公平な政治がえできず天皇の権力が失われる)がはじまるが、やがて公武が対立する🎦鎌倉幕府の滅亡 |
1336年(~元~) | 南北朝が対立する(南北朝時代足利尊氏が武家政治を再興するために調停軍を破り京都に別の天皇を立てる(北朝)、後醍醐天皇が吉野(奈良)に逃れ、朝廷をおく(南朝)南朝と北調の対立が約60年続いた時代)🎦南北朝時代 |
1338年 | 足利尊氏が征夷大将軍北朝の光明天皇から征夷大将軍に命じられ、京都に幕府を開く。南朝との争いで幕府は安定せずとなる |
1368年(明~) | 元が滅び、明洪武帝(朱元璋)が南京を首都として明を建国、元を北方に追いやり、漢民族の主権を回復する。日本に対して倭寇(海賊)の取り締まりを求める(勘合貿易につながる(1404年))がおこる |
1378年 | 足利義満室町幕府三代将軍。南北朝合一、土岐・山名・大内氏の弾圧、明との国交回復に成功し、幕府権力を確立。太政大臣として朝廷内でも権力をもつ。出家後は京都北山に金閣を建て、北山文化を開花させるが室町に幕府を移す |
1392年 | 南北朝の合一3代将軍足利義満の呼びかけに応じ、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に行き、北朝の五小松天皇に位をゆずる・李氏朝鮮倭寇の撃退に功績をあげた李成桂が高麗を滅ぼして朝鮮を建国、李氏の挑戦はハングル(朝鮮文字)をつくり、朱子学を奨励、日本との国交も進めたの成立 |
室町時代
室町時代⬅
1397年 | 足利義満が金閣寺を造営 |
1404年 | 日明貿易(勘合貿易)足利義満が明による国交と倭寇の取り締まりの求めに応じ1401年に国交をひらく、貿易の利益のために開始。銅、硫黄、刀剣を輸出し、導線、生糸、絹織物を輸入したがはじまる |
1426年 | 近江坂本の馬借一揆 |
1428年 | 正長の土一揆借金に苦しむ近江(滋賀県)の馬借(運送業者)が借金の帳消し(徳政令)を幕府に要求しておこした一揆、京都や奈良周辺の農民も加わり、土倉や酒屋、寺社を襲い、借金の証文を破り捨てたがおこる |
1429年 | 尚氏が琉球を統一 |
1454年 | 享徳の大一揆 |
戦国時代(室町時代)
戦国時代(室町時代)
1467年 | 応仁の乱将軍家・管領家の相続争いから、東軍(細川方)・西軍(山名方)の派閥に分かれておこった争い。京都が焼け野原になり戦国時代が始まった(~1477年)国一揆・一向一揆がおこるなど下剋上の流れが強くなる |
1492年 | コロンブスが西インド諸島に到着 |
1498年 | バスコ=ダ=ガマがインドに到着 |
1519年 | マゼラン一行が世界一周に成功 |
1534年 | イエズス会が設立 |
1543年 | ポルトガル人が九州の種子島に漂着し鉄砲鉄砲によって、戦法が足軽鉄砲隊による集団船へと変わるが日本に伝わる |
1549年 | フランシスコ=ザビエルが鹿児島に来日しキリスト教キリスト教は主に九州の大名たちの間で保護され、洗礼を受けた大名をキリシタン大名と呼ぶが日本に伝わる |
1553年 | 川中島の戦い 武田信玄と上杉謙信の初めての合戦。信玄と謙信はその後12年の間に5回、川中島で合戦をするが、決着はつかないまま終わる。 |
1555年 | 厳島の戦い 毛利元就が陶晴賢に勝利 |
1558年 | 木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、織田信長に仕える |
1560年 | 桶狭間の戦い織田信長が京都にのぼろうとする駿河(静岡県)の今川義元の大軍を尾張(愛知県)の桶狭間で奇襲し破る。この後、今川氏が衰え信長が勢力を握る(織田信長が今川義元を破る) |
1573年(~明~) | 室町幕府が滅びる織田信長が延暦寺の焼き討ちを行い、寺院勢力をおさえる。この後、権力の回復を目指した足利義昭と対立、義昭を京都から追放し室町幕府を終わらせる |
安土・桃山時代
安土桃山時代⬅
1575年(~明~) | 長篠の戦い織田・徳川連合軍が戦国最強と言われた武田勝頼の騎馬隊を圧勝した戦い、足軽鉄砲隊によって鉄砲が武器として使われた |
1576年 | 織田信長が安土城を築く |
1582年 | 本能寺の変織田信長が京都の本能寺で家臣であった明智光秀に攻められ自害した。この後、豊臣秀吉は対戦中だった毛利氏と停戦をはかり、山崎の戦で明智光秀を討つ、太閤検地豊臣秀吉が行った全国的な土地検査、田畑の面積・等級・石高(収穫高)を調べ、耕作者を検地帳に登録して納税制とした。これにより荘園制が完全に消滅するがはじまる |
1583年 | 大阪城築城開始 |
1584年 | スペイン船が平戸にくる |
1587年 | 豊臣秀吉がバテレン(宣教師)追放令キリスト教が国内統一の妨げになると考え、キリスト教宣教師の国外追放を命じた。貿易は許可されていたため、キリスト教の禁止は徹底されなかったを出す |
1588年 | 豊臣秀吉によって刀狩農民から刀、弓、やり、鉄砲などの武器を取り上げ、一揆を防ごうとした。太閤検地と刀狩によって兵農分離が進み、武士・農民・町人の身分の違いが明確となったが行われる |
1590年 | 豊臣秀吉が全国統一小田原(関東)の北条氏を討ち、東北の伊達氏を従え、全国を統一、戦国時代が終わる。秀吉は関白・太政大臣の位について、朝廷の権威を利用しながら政治をおこなった |
1592年 | 文禄の役15万の大軍を送り首都漢城(はんそん)(現在のソウル)を占領、朝鮮半島の北部まで進軍する(秀吉による朝鮮侵略)~1593年 |
1597年 | 慶弔の役文禄の役の和平交渉がまとまらず、ふたたび出兵。翌年秀吉が病死したため日本軍が引き上げた。この失敗により豊臣氏の没落が早まった。朝鮮人陶工が連行され、有田などに技術が伝わる(有田焼)(二度目の朝鮮侵略)~1598年 |
1600年 | 関ヶ原の戦い美濃(岐阜県)の関ケ原で徳川家康の東軍と石田三成の西軍が戦い、東軍が勝利を収めた戦い。この結果家康の全国支配が確立する。天下分け目の戦いともいわれる |
1603年(~明~) | 徳川家康が征夷大将軍になる征夷大将軍として江戸幕府をひらく。家康は将軍職を秀忠に譲った後も大御所として政治の実権を握った。この時、大阪城には秀吉の息子、豊臣秀頼が存命 |
江戸時代
江戸時代⬅
1603年(~明~) | 徳川家康が征夷大将軍になる征夷大将軍として江戸幕府をひらく。家康は将軍職を秀忠に譲った後も大御所として政治の実権を握った。この時、大阪城には秀吉の息子、豊臣秀頼が存命 |
1607年 | 朝鮮と日本の国交が回復(朝鮮通信使秀吉の朝鮮侵略以来途絶えていた朝鮮との交流を再開。朝鮮通信使は将軍が変わるごとに派遣され、計12回の使者が来日) |
1609年 | オランダが平戸に商館をおく、対馬の宗氏が朝鮮と通商条約を結ぶ |
1613年 | イギリスが平戸に商館をおく |
1614年 | 大阪冬の陣家康が口実を設け、豊臣秀頼(秀吉の息子)を倒そうと大阪城を攻撃するが失敗する。🎦大阪冬の陣 |
1615年 | 大阪夏の陣大阪冬の陣の後講和が成立するが、幕府がこれを無視したため大阪夏の陣がおこる。秀頼とその母である淀君が自殺し豊臣家が滅ぶ(豊臣氏が滅びる)🎦大阪夏の陣、武家諸法度徳川秀忠が大名統制のために発布、幕府の許可なしに城を修理したり婚姻関係を結んだりすることを禁止した。背いた大名は領地を没収されるなど厳しく処分されたの制定 |
1616年 | ヨーロッパの船の寄港地を平戸・長崎に制限 |
1624年 | スペイン船の来航を禁止 |
1635年 | 参勤交代徳川家光が武家諸法度(1615年)を改定して参勤交代の制を定めた。大名は一年おきに領地と江戸を往復し、妻子は人質として江戸の屋敷に住むことを義務付けた。これにより大名の財政は苦しくなるの制度を定める |
1636年(清~) | 明が滅び、清がおこる |
1637年 | 島原・天草一揆九州の島原・天草地方でキリシタン農民らが天草四郎を頭としておこした一揆。領主のキリシタン弾圧と重税が原因。幕府は大軍を送り、1638年に鎮圧される(島原の乱)(~1638年) |
1639年 | ポルトガル船の来航を禁止島原・天草一揆の後、キリスト教禁止を徹底させたい幕府がポルトガル船の来航を禁止する |
1641年 | 平戸のオランダ商館を出島に移す(鎖国政策貿易の拠点として平戸のオランダ商館が鎖国政策によって長崎の出島に移される。出島だけがヨーロッパの文化の入り口となる) |
1649年 | 慶安の御触書江戸幕府が農民統制のため発令した法令 |
1669年 | シャクシャインの戦い松前藩の不正な取引に腹を立てたアイヌの人々がシャクシャインに率いられて松前藩と戦う。シャクシャインが殺され、これ以降、蝦夷地(北海道)は松前藩が実質的に支配する(蝦夷地) |
1680年 | 徳川綱吉が5代将軍となる |
1685年 | 生類憐みの令戌年生まれだった徳川綱吉が犬をはじめとする動物の保護を命じた。綱吉は犬公方とも呼ばれ、違反したものは厳しい処罰を受けるなど人々の不満は大きかった。また、綱吉は貨幣の流通量を増やすため貨幣の質を下げた結果、物価が上がり人々は苦しんだ。が出される 🎦生類憐みの令と徳川綱吉 |
1709~1716年 | 新井白石の政治(正徳の治) 🎦正徳の治 6代将軍徳川家宣・7代将軍徳川家継に仕えた新井白石が行った文知政治、貨幣の質をよくしたり、長崎の貿易を制限したりして財政を立て直そうとした |
1716年 | 徳川吉宗による享保の改革家康の頃の政治を手本に始めた改革。武芸や質素・倹約の奨励、新田開発、足高の制(人材確保)、上げ米の制(大名に石高1万石につき100石の米を献上させる代わりに参勤交代の江戸在府期間を半年した(本来は1年))、目安箱の設置などを実施した。(~1745年) 🎦徳川吉宗と享保の改革 |
1721年 | 徳川吉宗によって目安箱庶民の要求・不満などを投書させるための箱が設置される |
1742年 | 公事方御定書裁判の基準となる法律、江戸の町奉行大岡忠相らが編さんにあたった幕府の基本法典。上下2巻に分かれており、下巻は御定書百箇条ともいうの制定 |
1772年 | 田沼意次 徳川家重・家治に仕えた老中、株仲間(同業者同士の組合)の公認や印旛沼(千葉県)の干拓、長崎貿易の奨励、蝦夷地の開発などを行うがわいろが横行し政治が乱れるが老中になる、イギリスで産業革命が始まる🎦田沼意次 |
1774年 | 杉田玄白らが解体新書医者の杉田玄白と前野良沢らがオランダ語の人体解剖書を日本語に翻訳し、解体新書として出版、後の蘭学の発展につながるを出版する |
1776年 | アメリカ独立宣言 |
1787年 | 松平定信による寛政の改革 🎦松平定信と寛政の改革 11代将軍徳川家斉のもとで老中松平定信が徳川吉宗を手本にしておこなった改革、倹約令、棄捐令(借金を帳消しにする法令)、囲米の制(大名に1万石につき50石のコメの備蓄を命じる制度、天明の大飢饉を反省しての制度)、寛政異学の禁(朱子学以外の学問の講義を禁止とした)などがあるが、人々の反感をまねき失敗する(~1793年) |
1792年 | ロシアのラスクマン日本との通商を要求するが、幕府は長崎への入港許可証を渡し立ち去らせたが根室に来る |
1800年 | 伊能忠敬が蝦夷地(北海道)を測量 |
1804年 | ロシアのレザノフ通商を求めたが拒否されて翌年に去る、通商拒否に怒ったレザノフは配下の軍人に択捉島や樺太を攻撃させたが長崎に来る |
1808年 | 間宮林蔵諸外国の日本への接近に対して幕府は沿岸の防備を強化するとともに、間宮林蔵らに北方の探検を命じた、間宮はこのとき樺太が島であることを確認が樺太を探検する |
1825年 | 異国船打払令ロシア、イギリスなどがたびたび来航し通商を求めていたが、鎖国政策を変えず、1825年に沿岸に近づく外国船は迷うことなく撃退せよという命令、1842年に緩和されるがだされる |
1834年 | 水野忠邦が老中になる |
1837年 | 大塩平八郎の乱 🎦大塩平八郎の乱 元大坂町奉行所の役人、天保の飢饉に対する町奉行の無策や大商人の不正に怒り、乱を起こした。乱は一日で鎮圧されたが、各地で一揆や打ちこわしが起こった、アメリカ船モリソン号が浦賀に入港するが異国船打払令により撃退される、百姓一揆や打ちこわしが多発する |
1839年 | 蛮社の獄モリソン号が異国船打払い令で撃退したことに対して、渡辺崋山や高野長英らが幕府の鎖国政策を批判したため処罰されたことがおこる |
1840年 | アヘン戦争がおこる(~1842年) |
1841年 | 水野忠邦による天保の改革 🎦天保の改革 12代将軍徳川家慶のもとで幕府政治の立て直しをはかった、株仲間の解散、倹約令、人返し令(江戸の人口を減少させ、農村部の人口を確保しようとした)、上知令(幕府による土地没収の命令)などを出したが失敗に終わる(~1843年) |
1853年 | 東インド艦隊司令長官であるペリーが浦賀に来航 🎦 黒船来航と日米和親条約 大統領の国書をもち、4隻の軍艦を率いて来航し開国を求める、幕府は翌年解答することを約束し、ペリーを引き取らせた |
1854年 | 日米和親条約再度来航したペリーの強い要求によって結ばれた条約、この条約で日本は開国し、下田・函館の2港を開港、イギリス、オランダ、ロシアとも和親条約が結ばれた(神奈川条約) |
1858年 | 安政の大獄江戸幕府が行った弾圧、幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、将軍継嗣を徳川家茂に決定したことに対して反対した者たちを弾圧した、吉田松陰ら多くの反対派が処罰された(~1859年) |
1860年 | 桜田門外の変 🎦安政の大獄と桜田門外ノ変安政の大獄に対して反対派の水戸藩の浪士らにより江戸城の桜田門外で大老井伊直弼が暗殺される |
1862年 | 生麦事件(薩摩藩士による英国人殺傷事件) |
1863年 | 薩英戦争 |
1864年 | 下関戦争(四か国の連合艦隊が下関を攻撃して占領) |
1866年 | 薩長同盟薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允らが土佐藩出身の坂本龍馬らの仲立ちで結んだ同盟、以後互いに協力して倒幕運動を行っていくの成立 |
1867年(~清~) | 大政奉還土佐の前藩主山内豊信のすすめで江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上、王政復古の大号令政権が朝廷に返上されたことを知らしめ、天皇を中心とする新政府を樹立、江戸幕府が滅亡する |
明治時代
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1868年(~清~) | 五箇条の御誓文明治天皇が出した新政府の基本方針、世論尊重、知識を世界に求めて発展をはかるなど天皇が神々に誓うという形で発表 |
1869年 | 東京に都を移す、版籍奉還薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が土地(版)と人民(籍)を朝廷に返し、他の藩主もこれにならった。元の藩主は知藩事に任命され、土地と人民を収めた |
1871年 | 廃藩置県藩を廃止して府県を置いた、中央から新たに府知事や県令(県知事のこと)が派遣され、政府が直接全国を治める中央集権国家の基礎が確立された、解放令、日清修好条規 |
1872年 | 学制政府が6歳以上の男女に小学校教育を受けさせようとしたが、授業料が高く、働き手が取られるという理由で反発も強く学制に反対する一揆もおこったの発布 |
1873年 | 徴兵令満20歳以上の男子に兵役の義務を負わせた、農民は働き手を取られるため徴兵令反対の一揆をおこした、地租改正政府が財政収入の安定化をはかるために地券を1972年に発行して土地の所有者を決めた。地価を定め、その3%を地租として土地の所有者に税金で納めさせるようにした |
1873年 | 征韓論西郷隆盛や板垣退助らが武力行使してでも朝鮮を開国させようと主張するが、欧米から帰国した岩倉具視らに反対され退けられた。政府を去った西郷隆盛は後で西南戦争を板垣退助らは自由民権運動をおこしたが退けられる |
1874年 | 民選議院設立の建白書板垣退助らは薩長出身者による専制政治をやめ、民選議院(国会)を設立して国民の参加を求める民選議院設立の建白書を政府に提出した。このことが議会政治をめざす自由民権運動に繋がった、立志社が結成 |
1875年 | 千島・樺太交換条約樺太は日本ロシア両国の雑居地であった。政府は開拓使を設け、北海道・樺太の開拓を進めようとしたが財政難で樺太を放棄、幕末のロシアとの条約で定めた国境を変更し、千島列島を日本領、樺太をロシア領とした |
1876年 | 日朝修好条規1975年、日本の軍艦が朝鮮の江華島砲台の守備兵に攻撃され、日本の軍艦がこれに応戦、朝鮮側の砲台を破壊した(江華島事件)この事件をきっかけに、日本が朝鮮に不利な日朝修好条規を結ばせ、朝鮮を開国させた |
1877年 | 西南戦争身分的な特権をうばわれた士族が政府に対して不満を強め、西日本各地で反乱、鹿児島の士族らが征韓論で敗れた西郷隆盛を中心におこした戦争、政府軍に鎮圧された |
1880年 | 国会期成同盟が結成される |
1881年 | 開拓使官有物払い下げ事件、国会開設の勅諭自由民権運動が高まったため政府が出した10年後の国会開設の約束。その後、国会開設に向けて板垣退助が自由党を、大隈重信が立憲改進党を結成する、板垣退助らが自由党を結成 |
1882年 | 大隈重信らが立憲改進党を結成 |
1884年 | 秩父事件 |
1885年 | 内閣制度政府が国会開設に備えて、太政官制を改め、内閣制度を設けた。初代内閣総理大臣に伊藤博文が選ばれた。国務大臣には薩長出身者が多かったため、反対派からは藩閥内閣であると批判を受けたができる |
1889年 | 大日本帝国憲法君主県の強いドイツ(プロイセン)憲法を参考にして伊藤博文が起草、1889年2月11日に発布、天皇が制定して国民に与えるという欽定憲法で主権は天皇にあったの発布 |
1890年 | 第一回帝国議会最初の総選挙が行われ第一回帝国議会が開かれる。議会は皇族や華族、多額納税者を中心とする貴族院と国民の選挙で選ばれた議員からなる衆議院の二院制だった |
1894年 | 条約改正(領事裁判権(治外法権)第二次伊藤内閣の外務大臣、陸奥宗光が日清戦争開戦の直前に日英通商航海条約を結び、領事裁判権を撤廃することに成功、他の欧米諸国とも条約改正がおこなわれる。1911年に関税自主権を回復するの撤廃)、甲午農民戦争(朝鮮)、日清戦争朝鮮南部でおこった甲午農民戦争をきっかけに日清両軍が朝鮮に出兵しておこった戦争、日本軍が勝利をおさめ、1895年に下関条約が結ばれる(~1995年) |
1895年 | 下関条約(日清講和条約)内容は(1)朝鮮の独立承認 (2)遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲 (3)軍費賠償金2億両(約3億円)の支払い (4)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権を日本に認める新条約の締結など、三国干渉ロシア・ドイツ・フランスの三国が下関条約で日本の領土となった遼東半島を清に返すように要求、日本が従う(ロシア・ドイツ・フランス) |
1899年 | 義和団事件ヨーロッパの中国侵略に反発して義和団が山東省でおこした反乱、北京の列国公使館が襲われたため、日本やロシアなど8か国の連合軍が出兵して鎮圧した(中国)(~1901年) |
1902年 | 日英同盟義和団事件の後、ロシアが中国の満州を占領、韓国にも勢力をのばそうとしたため、利害関係が一致した日本とイギリスと日英同盟を結び、ロシアに対抗したを結ぶ |
1904年 | 日露戦争満州と韓国の支配権をめぐって日本とロシアの間でおこった戦争(~1905年) |
1905年 | ポーツマス条約日露戦争の日本海海戦などで勝利した日本とロシアがアメリカ合衆国の仲立ちにより結んだ条約 |
1909年 | 伊藤博文が暗殺される |
1910年 | 大逆事件、韓国併合 |
1911年(~清) | 関税自主権の回復1894年外務大臣陸奥宗光によって領事裁判権が撤廃、1911年第二次桂内閣の外務大臣小村寿太郎が日露戦争勝利による日本の国際的な地位の向上を背景に関税自主権の回復に成功する(条約改正) |
大正時代
大正時代⬅
1912年(中華民国~) | 第一次護憲運動第三次桂太郎内閣の藩閥・軍閥中心の専制政治に対し、犬養毅や尾崎行雄らが立憲政治を守る運動を進めて桂内閣を総辞職に追い込む、中華民国の成立中華民国成立後、清政府の実力者である袁世凱が孫文(民族・民権・民生の三民主義を唱えた政治家、中国革命の父と呼ばれる)と手を組み皇帝を退位させ清を滅ぼす、その後、袁世凱が中華民国の初代大統領になり独裁政治を行った、首都は北京 |
1914年 | 第一次世界大戦オーストリアの皇太子夫妻がサラエボでセルビアの青年に暗殺されたのを引き金として連合国側と同盟国側に分かれて戦った戦争。日本は日英同盟を理由に連合国側で参戦、ドイツの中国における根拠地などを占領した。1918年に連合国側が勝利して終わる(~1918年) |
1915年 | 中国に二十一か条の要求第一次世界大戦の後に日本が中国に対して出した要求、山東省のドイツの権益を継承することなどを内容とする二十一か条の要求を出した。これに対して中国で反日運動がおこり、欧米も日本を非難したをだす |
1917年 | ロシア革命専制政治(個人が絶対的権力で支配する政治)に反発した労働者や兵士がおこした反乱により皇帝が退位(三月革命)、レーニンの指導の下十一月革命がおこり、世界初の社会主義国家が誕生するがおこる |
1918年 | シベリア出兵ロシア革命の影響を恐れた列強がシベリアに出兵する、米騒動米価上昇に苦しんだ富山県の漁村の主婦らが米屋を襲ったのをきっかけに全国に広がる。米騒動によって寺内内閣が終わり、初の政党内閣である原敬内閣が成立する、原敬の政党内閣が成立 |
1919年 | ベルサイユ条約パリ講和会議で連合国側がドイツに結ばせた講和条約。この条約によりドイツは領土を削られすべての植民地を失い、厳しい軍備制限や巨額の賠償金を課せられた、三一独立運動(朝鮮)、五四運動(中国) |
1920年 | 国際連盟アメリカ合衆国大統領ウィルソンの提唱で恒久平和機構として設立。本部がスイスのジュネーブに置かれた。当初アメリカ合衆国は不参加であり、ドイツとソ連も加盟を許可されなかったの発足 |
1921年 | 日本労働総同盟成立、ワシントン会議日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの主力艦を制限する海軍軍縮条約を結ぶ。太平洋地域の現状維持と日英同盟の廃棄を定めた四か国条約、中国の主権尊重などを定めた九か国条約が結ばれる(~1922年) |
1922年 | 全国水平社被差別部落の人々が差別からの解放と人間としての自由・平等を求めて運動をおこない、京都で全国水平社の設立大会が開かれ、水平社宣言が出された結成、ソビエト連邦成立 |
1923年 | 関東大震災1923年9月1日関東地方に大地震がこり、東京・横浜などが壊滅状態となり、震災恐慌がおこる。この混乱の中、朝鮮人や社会主義者が暴動を起こすとのデマが飛び交い、多くの人が殺されたがおこる |
1924年 | 第二次護憲運動この運動によって加藤孝明を首相とする政党内閣が成立するがおこる |
1925年(~中華民国~) | 普通選挙制第二次護憲運動で生まれた加藤高明内閣のもと普通選挙制が成立。満25歳以上の全男子に選挙権が与えられることになった(アメとムチのアメ)。が公布、治安維持法普通選挙制公布の直前、社会主義運動を警戒する政府が集会や結社を厳しく取り締まるために公布(アメとムチのムチ)が公布 |
昭和時代
昭和時代⬅
1929年(~中華民国~) | 世界恐慌ニューヨークで株価暴落をきっかけとした世界的な恐慌。企業の倒産や失業者が増大した。五か年計画を進めていたソ連を除く全資本主義国に広まり、世界経済が大混乱した |
1931年 | 満州事変満州の日本軍が奉天(現在の瀋陽)郊外で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍のせいにして戦闘を開始、満州全土を占領、翌年満州国を立てて満州を支配する |
1932年 | 満州国の成立、五一五事件政党政治に不満をもつ青年将校の間に軍部政権を目指す動きが強まった結果、海軍の青年将校らが5月15日に犬養毅首相を暗殺、この結果政党政治が終わり、以後軍人や官僚が内閣を組織する |
1933年 | 日本が国際連盟を脱退、ナチス政権成立ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)政権が成立し、党首のヒトラーがワイマール憲法(ドイツの憲法で国民主権、普通選挙による議会民主主義、所有権・生存権の保障など)を停止し、独裁体制を確立する(ドイツ)、ニューディール政策アメリカ合衆国大統領フランクリン=ルーズベルトによる世界恐慌への対策、余った農産物を政府が買い上げたり、テネシー川総合開発事業(TVA)、ダムの建設などを行い失業者を救済し、景気の回復を図り成功する(イギリス・フランスはブロック経済で恐慌を乗り越えようとするが苦戦する)(アメリカ) |
1936年 | 二・二六事件軍部の独裁政権を目ざした陸軍青年将校が部隊を率いて首相官邸を襲撃、東京中心部を占拠した事件、4日で鎮圧されたが、この後、軍部の政治への発言力が強まった |
1937年 | 日中戦争北京郊外で日中両軍の衝突をきっかけにおこった戦争、日本は南京を占領するが、その後も中国も米英の援助を受けて交戦を続けた(~1945年)、日独伊防共協定を結ぶ |
1938年 | 国家総動員日中戦争が長期化したため、近衛内閣が戦時体制を整えるために制定、資源や労働力のすべてを戦争に動員した。資金や物資は厳重に統制され、コメや衣料品などの生活必需品も配給制となったの制定 |
1939年 | 独ソ不可侵条約、第二次世界大戦独ソ不可侵条約を結ぶとドイツはすぐにポーランドに侵入、これに対してイギリス・フランスがドイツに宣戦しておこった戦争、日独伊の枢軸国と米英仏ソ中などの連合国が戦い、1945年に連合国側の勝利で終わる(~1945年) |
1940年 | 日独伊三国同盟1937年に結んだ日独伊防共協定を発展させ、3か国が政治的・軍事的に協力し合うことを定めた同盟、日本は1941年にソ連と中立条約を結び、北方の安全を確保してから南方進出の準備を整えた |
1941年 | 太平洋戦争日米交渉に失敗した日本がハワイ(アメリカ)の真珠湾を奇襲攻撃したことで始まった戦争、日本軍は短期間で東南アジアから南太平洋の島々を占領したが、1942年のミッドウェー海戦の敗北以後、アメリカ軍の反撃にあうが始まる、日ソ中立条約 |
1943年 | イタリアの降伏 |
1945年 | ドイツの降伏、広島・長崎に原子爆弾が投下される、ポツダム宣言日本の降伏条件を示した宣言、アメリカ・イギリス・中国の名で発表、日本は当初これを無視するが、原爆の投下やソ連の参戦などにより1945年8月14日に宣言を受け入れた。(米英ソの代表が1945年2月にヤルタ会談でドイツの践祚処理とソ連の対日参戦などを密約していた)を受諾(降伏)、国際連合サンフランシスコ会議で採択された国際連合憲章に基づいて発足、世界の平和・安全を目的とする、本部をニューヨークにおくの発足(ニューヨーク)、アジア諸国の独立、冷戦がはじまる、日本の民主化が行われる、財閥解体、農地改革自作農をつくるための政策、農村に住んでいない地主の全耕地と農村に住む地主の約1ha(北海道は4ha)以上を政府が買い上げ、小作人に安く売り渡した、1945年にGHQが指令し1946年に実施された、婦人参政権、労働組合法 |
1946年 | 昭和天皇の人間宣言、日本国憲法国民主権・基本的人権・平和主義の三大原則として公布(1947年施行)第9条で戦争放棄を掲げ武力行為を禁止したの公布(47施行) |
1947年 | 独占禁止法、労働基準法、地方自治法、教育基本法 |
1949年(中華人民共和国~) | 北大西洋条約機構、中華人民共和国第二次世界大戦の後、蒋介石の国民政府と毛沢東の共産党との国共内戦が再開、共産党が民衆の支配を得て勝利、毛沢東を主席とする中華人民共和国が北京を首都として成立するの成立 |
1950年 | 警察予備隊ができる、朝鮮戦争朝鮮は1948年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分かれて独立、1950年に北朝鮮が北緯38度線を越えて南に侵入して起こった戦争、1953年に休戦協定が成立する(この戦争の特需によって日本の戦後復興が早まった)(~1953年) |
1951年 | サンフランシスコ平和条約朝鮮戦争がはじまると、アメリカ合衆国は日本を自由主義陣営にいれるため講和を急いだ、、日本からは吉田茂首相が参加し48か国と平和条約を結び、独立を回復した、日米安全保障条約サンフランシスコ平和条約と同時に日米間で結ばれた条約、独立後もアメリカ軍の駐留を認める、その後1952年に日米行政協定を結び、具体的な取り決めを行った |
1953年 | 奄美諸島の日本復帰 |
1954年 | 自衛隊の発足、第五福竜丸事件、ネルー・周恩来階段(平和五原則の発表) |
1955年 | ワルシャワ条約機構の成立、原水爆禁止世界大会(広島)、アジア・アフリカ(バンドン)会議 |
1956年 | 日ソ共同宣言第二次世界大戦後の日ソ間の戦争終結を宣言し国交が回復、これにより日本の国連加盟が実現する、しかし、北方領土問題は未解決で平和条約も結ばれていない状態である(国交回復)、日本が国際連合へ加盟(日本経済が急成長) |
1960年 | 日米安全保障条約の改定改定された新安保条約では、日本の領域で日米のどちらかが攻撃されたとき、在日米軍と自衛隊が共同行動することが定められた。この条約に反対したデモ隊が国会議事堂周辺を連日取り巻いた(安保闘争)、アフリカで17か国が独立(アフリカの年) |
1962年 | キューバ危機 |
1963年 | 部分的核実験停止条約 |
1964年 | 東京オリンピックアジア初のオリンピック大会、高度経済成長により東海道新幹線も開通、山陽新幹線も建設された開催 |
1965年 | ベトナム戦争の激化、日韓基本条約韓国を朝鮮半島にある合法的な政府と認める条約、これにより国交が正常化したを結ぶ |
1967年 | EC(ヨーロッパ共同体)の発足 |
1968年 | 核兵器拡散防止条約 |
1969年 | 同和対策事業特別措置法 |
1971年 | 中華人民共和国が国連の代表権を獲得 |
1972年 | 沖縄の日本復帰、日中の国交正常化 |
1973年 | ベトナム和平協定、第四次中東戦争、石油危機第四次中東戦争でアラブ産油国が石油の輸出制限と大幅な値上げを実施した結果、日本で石油不足や物価高騰がおこり、高度経済成長が終わった |
1978年 | 日中平和友好条約中国との国交正常化のために1972年に田中角栄首相が訪中、日中共同声明の発表により国交が正常化、1978年にこの条約を結ぶ |
1980年 | イラン・イラク戦争(~1988年)、モスクワオリンピック(日本不参加) |
1989年 | 東欧の民主化運動(ポーランドなど) |
平成時代
平成時代
1990年 | ドイツ連邦共和国ドイツは第二次世界大戦で東西に分割された、東ドイツで民主化運動が高まり、1989年にベルリンの壁が崩壊、翌年西ドイツが東ドイツを吸収するという形で東西ドイツが統一されるの成立(東西ドイツの統一) |
1991年 | 湾岸戦争、ソビエト連邦の解体経済不振に対する国民の不安からソ連の各共和国が独立の動きを強めた、1991年に保守派のクーデターが失敗し、バルト三国が独立。ソ連は解体されCISが成立する(CIS(独立国家共同体)の成立) |
1993年 | EU(ヨーロッパ連合)1967年にフランス、西ドイツを中心に結成されたEC(ヨーロッパ共同体)がマーストリヒト条約により呼び名が変わった、通貨・政治の統合を目指すことになる、この後1999年にユーロが発行されるの発足、欧州連合条約(マーストリヒト条約)の発効 |
1995年 | 阪神・淡路大震災 |
1998年 | コソボ問題 |
2001年 | アメリカ同時多発テロニューヨークの世界貿易センタービルとワシントン国防総省のビルに民間旅客機が激突した事件、アメリカはイスラム過激派による同時多発テロとしてテロとの対抗姿勢を示した |
2002年 | 日朝首脳会談小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問、金正日国防委員長と首脳会談を行い、国交正常化に向けて日朝平壌宣言を発表、会談後北朝鮮に拉致されていた日本人数名が帰国を果たす |
2004年 | 自衛隊をイラクへ派遣強行採決で成立したイラク復興支援特別措置法に基づき、陸上自衛隊がイラクのサマーワ市に派遣される |
2008年 | リーマンショック |
2009年 | 鳩山由紀夫内閣成立(民主党政権成立) |
2011年 | 東日本大震災発生 |
2012年 | 第二次安部内閣成立(自民党政権) |
2014年 | 消費税8%に |
2016年 | 熊本地震 |
2018年 | 米朝首脳会談で拉致事件解決への道が開ける |
令和時代
令和時代
2019年 | 元号が令和になる |
2020年 | 新型コロナウイルスが大流行 |
世界の流れ
世界の流れ(~明治時代)
世界の流れ(~明治時代)
1814年(~1815年)ウィーン会議
紀元前3500~2000年 | 4大文明メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明が起こる 📝 |
紀元前800年 | ギリシャでポリス古代ギリシアにおいて、自立した国家を形成し、市民による民主政が行われていた都市のことが成立 |
紀元前500年 (~殷・周・春秋・戦国) | インドで釈迦(シャカ)インドのシャカ族の王子、29歳で出家し、苦行などを通して悟りを開くが仏教を起こす 中国で孔子などの諸子百家中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」は孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子などの人物を指す。「百家」は儒家・道家・墨家・名家・法家などの学派を指す。があらわれる |
紀元前334年 | アレクサンドロス大王マケドニアの大王、エジプトを占領後ペルシャ帝国を滅ぼした、ギリシャからインドにわたる大帝国をつくり、ギリシャ文化は東方に伝わり、ヘレニズム文化へ発展が東方遠征 |
紀元前221年(秦~) | 秦の始皇帝中国で紀元前8世紀頃から続いた春秋戦国時代の後、秦が中国を統一、始皇帝の死後反乱がおこり、15年ほどで滅ぶが中国を統一 |
紀元前202年(前漢~) | 前漢が中国を統一 |
紀元前27年(後漢~) | ローマ帝国の成立(~後395) |
紀元前4年 | イエス=キリストキリスト教の創始者、ユダヤ人、パレスチナ地方に生まれ30歳ころから布教活動を行う、普遍的な愛を説き、ユダヤ教徒やローマ帝国から迫害を受け、十字架にかけられ処刑されるの誕生 |
(紀元後)57年 | 北九州の奴国(なのくに)の王が後漢に使いを送り、金印後漢書の「東夷伝」に記録が残る、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印が江戸時代福岡県志賀島で発見されるを受け取る→東西文化の交流(シルクロード)🎦漢書地理志・後漢書東夷伝、魏志倭人伝から見る古代日本 |
375年 | ゲルマン人大移動ゲルマン人の一派である西ゴート族がドナウ川にわたり、ローマ軍を破ってローマ帝国内に侵入、この大移動が後に西ローマ帝国滅亡の原因となる |
391年 | 大和政権百済、新羅を破る、大陸の生産技術と鉄資源の確保が目的の倭軍が朝鮮半島に出兵 |
610年 | イスラム教がおこる |
870年 | フランク王国の分裂(メルセン条約) |
1096年 | 十字軍の遠征が始まる(~1270年) |
1206年(モンゴル攻める→元~) | チンギス=ハンモンゴル帝国を築き、中央アジアと南ロシアを征服、その後モンゴル帝国は分裂したが、フビライ=ハンが国号を元と改め、都を大都(北京)に移したがモンゴルを統一 |
1215年 | マグナカルタ(大憲章)の制定 |
1274年 | 文永の役フビライ=ハンが日本を従えようと使者を送るが、執権北条時宗がこれを拒否し争いになる。幕府軍は元軍の集団戦法や火器に苦戦するが、高麗(朝鮮)の人を兵士として送り、士気も低かった元軍が退いたとされる(元寇) |
1281年 | 弘安の役幕府が元の再来に備えて博多湾に防塁(石で組んだ壁)を築き、上陸を阻止、また暴風雨によって元の船が沈み幕府側が勝利(元寇) |
1339年 | 百年戦争が始まる(~1453年) |
1392年 | 李氏朝鮮倭寇の撃退に功績をあげた李成桂が高麗を滅ぼして朝鮮を建国、李氏の挑戦はハングル(朝鮮文字)をつくり、朱子学を奨励、日本との国交も進めたの成立 |
1453年 | 東ローマ帝国の滅亡 |
1479年 | スペイン王国成立 |
1492年 | コロンブスが西インド諸島に到着 |
1498年 | バスコ=ダ=ガマがインドに到着 |
1517年 | ルターの宗教改革始まる |
1519年 | マゼラン一行が世界一周に成功 |
1526年 | ムガル帝国がおこる |
1533年 | スペインがインカ帝国を滅ぼす |
1534年 | イエズス会が設立 |
1543年 | ポルトガル人が九州の種子島に漂着し鉄砲鉄砲によって、戦法が足軽鉄砲隊による集団船へと変わるが日本に伝わる |
1549年 | フランシスコ=ザビエルが鹿児島に来日しキリスト教キリスト教は主に九州の大名たちの間で保護され、洗礼を受けた大名をキリシタン大名と呼ぶが日本に伝わる |
1584年 | スペイン船が平戸にくる |
1588年 | イギリスがスペインの無敵艦隊イギリスの女王エリザベス一世がスペインの無敵艦隊を破る。この後東インド会社を設立しイギリスの海外発展の基礎を確立し、アジアや北アメリカに進出した。を破る |
1600年 | イギリスの東インド会社東洋の物産をヨーロッパへ運ぶ貿易会社、植民地経営も行った。エリザベス一世から特権を与えられ、インド貿易を独占して発展する設立 |
1607年 | 朝鮮と日本の国交が回復 |
1609年 | オランダが平戸に商館をおく、対馬の宗氏が朝鮮と通商条約を結ぶ |
1613年 | イギリスが平戸に商館をおく |
1616年 | ヨーロッパの船の寄港地を平戸・長崎に制限 |
1624年 | スペイン船の来航を禁止 |
1636年(清~) | 明が滅び、清がおこる |
1639年 | 日本がポルトガル船の来航を禁止島原・天草一揆の後、キリスト教禁止を徹底させたい幕府がポルトガル船の来航を禁止する |
1641年 | 平戸のオランダ商館を出島に移す(鎖国政策貿易の拠点として平戸のオランダ商館が鎖国政策によって長崎の出島に移される。出島だけがヨーロッパの文化の入り口となる) |
1642年 | 清教徒革命国王チャールズ一世の専制政治に対して、クロムウェル率いる議会派が起こした革命。1649年に国王が処刑され、共和政になった(ピューリタン革命)(イギリス~1649年) |
1644年 | 明が滅亡明の滅亡後、中国を統一した清は漢民族を登用し、モンゴルやチベットを従えて大帝国を建設した。 |
1649年 | チャールズ一世が処刑され、共和政になる(イギリス) |
1660年 | 王政復古(イギリス) |
1661年 | ルイ14世の絶対王政(フランス) |
1688年 | 名誉革命クロムウェルの死後、王政が復活したが、ジェームズ二世が議会と対立したため、議会が国王を追放しオランダから新しい国王(ウィリアム3世)を迎える。この革命は流血することがなかったため、名誉革命と呼ばれる(イギリス) |
1689年 | 権利の章典議会が決めた権利の宣言を国王であるウィリアム3世が認め発布した法律、王権は議会の承認なしには行使することができないことが定められており、イギリスの議会政治の基礎が確立する(イギリス) |
1765年 | ワットが蒸気機関を改良し産業革命が始まる(イギリス) |
1772年 | イギリスで産業革命が本格的に始まる |
1775年 | アメリカ独立戦争(~1783年) |
1776年 | アメリカ独立宣言イギリス本国の課税に反対し、1775年に13の植民地がワシントンを中心として独立戦争を起こしてだした宣言、ジェファーソンが起草したもの |
1789年 | フランス革命ルイ16世の絶対王政に反対したパリ市民がバスチーユ牢獄を襲撃したことから始まった、人権宣言フランス革命の後、国民議会によって出された、「人は生まれながらにして自由で平等な権利をもつ」など民主主義の基本原理が示されている |
1804年 | ナポレオンフランス革命後、強い指導者を望む市民や農民の支持を得て皇帝となり、ナポレオン法典(民法典)を制定、ヨーロッパのほとんどを支配したが、ロシア遠征失敗後、各国の反撃を受けて失脚するが皇帝になる(フランス)、ロシアのレザノフ通商を求めたが拒否されて翌年に去る、通商拒否に怒ったレザノフは配下の軍人に択捉島や樺太を攻撃させたが長崎に来る |
1814年(~1815年) | ウィーン会議ナポレオンの没落後、ヨーロッパの秩序を取り戻すためにヨーロッパ諸国の代表がオーストリアのウィーンに集まって開いた会議、この会議でヨーロッパの領土や政治をフランス革命以前の状態に戻すことが決定される |
1825年 | 異国船打払令ロシア、イギリスなどがたびたび来航し通商を求めていたが、鎖国政策を変えず、1825年に沿岸に近づく外国船は迷うことなく撃退せよという命令、1842年に緩和されるがだされる |
1830年 | 七月革命ウィーン会議後、復活した専制的な王政に対してパリ市民が起こした革命。国王を追放し、新たにルイ=フィリップを新国王として迎え、自由主義的な立憲王政を始めた(フランス) |
1832年 | 第一次選挙法改正(イギリス) |
1837年 | アメリカ船モリソン号が浦賀に入港 |
1839年 | 蛮社の獄がおこる |
1840年 | アヘン戦争イギリスがインド産のアヘンを清に密輸したことをきっかけとして起こった戦争、イギリスが清を降伏させ、南京条約を結ばせる(イギリスと清~1842年)、ロシアのレザノフが長崎に来る |
1842年 | 南京条約清が賠償金をはらい、上海・広州など5港を開いた、また香港がイギリス領となった。翌年、清は領事裁判権を認め、関税自主権のない不平等条約をむすばされた、列強の侵略により清は植民地化が進む |
1848年 | 二月革命国王ルイ=フィリップが資本家を中心とした政治をおこなったため、パリ市民や労働者が国王を追放した。この結果フランスは共和制となり、男子の普通選挙が実現する(フランス) |
1851年 | 太平天国の乱中国の貧しい農民が洪秀全を中心として起こした。太平天国は土地を平等に配分することや男女平等を主張したが、イギリスや清の地主の軍隊に寄り倒される(清~1864年) |
1853年 | 東インド艦隊司令長官であるペリーが浦賀に来航大統領の国書をもち、4隻の軍艦を率いて来航し開国を求める、幕府は翌年解答することを約束し、ペリーを引き取らせた、クリミア戦争南下政策を進めるロシアとトルコの間で起こった戦争(ナイチンゲールが従軍看護婦として参加)、イギリス・フランスがトルコを支援したためロシアが敗れた。1961年の農奴解放令に繋がるがおこる |
1854年 | 日米和親条約再度来航したペリーの強い要求によって結ばれた条約、この条約で日本は開国し、下田・函館の2港を開港、イギリス、オランダ、ロシアとも和親条約が結ばれた(神奈川条約) |
1857年 | セポイ(シパーヒー)の反乱イギリスの東インド会社に雇われていたインド人兵士(セポイ(シパーヒー))が起こした反乱、反乱を鎮圧したイギリスは翌年1858年にムガル帝国を滅ぼし、インドを支配下に置く(インド大反乱)(~1859年) |
1858年 | 日米修好通商条約下田に着任したアメリカ総領事のハリスが幕府に通商を要求。大老井伊直弼が朝廷の許可を得ないまま結んだ条約、領事裁判権(治外法権)を認め、関税自主権のない不平等条約を結ぶ、ムガル帝国滅亡(インド) |
1861年 | 南北戦争(アメリカ~1865年)、農奴解放令クリミア戦争で負けたロシアは農奴解放令を出して、近代化を進めた(ロシア) |
1862年 | 生麦事件(薩摩藩士による英国人殺傷事件) |
1863年 | アメリカ合衆国で奴隷解放令アメリカ合衆国第16代大統領であるリンカーンが南北戦争中に宣言、奴隷制度は事実上廃止され、法律上黒人と白人は平等になったが、黒人への人種差別はその後も残るを宣言、薩英戦争 |
1876年 | 日朝修好条規1975年、日本の軍艦が朝鮮の江華島砲台の守備兵に攻撃され、日本の軍艦がこれに応戦、朝鮮側の砲台を破壊した(江華島事件)この事件をきっかけに、日本が朝鮮に不利な日朝修好条規を結ばせ、朝鮮を開国させた |
1875年 | 千島・樺太交換条約樺太は日本ロシア両国の雑居地であった。政府は開拓使を設け、北海道・樺太の開拓を進めようとしたが財政難で樺太を放棄、幕末のロシアとの条約で定めた国境を変更し、千島列島を日本領、樺太をロシア領とした |
1877年 | イギリス領インド帝国の成立インド大反乱を鎮めたイギリスが東インド会社を解散し、インドを直接統治することにした、ビクトリア女王がインドの皇帝を兼ね、インドの支配をおこなった、間宮林蔵が樺太を探検する |
1887年 | フランス領インドシナ連邦の成立、異国船打払令がだされる |
1894年 | 条約改正(領事裁判権(治外法権)第二次伊藤内閣の外務大臣、陸奥宗光が日清戦争開戦の直前に日英通商航海条約を結び、領事裁判権を撤廃することに成功、他の欧米諸国とも条約改正がおこなわれる。1911年に関税自主権を回復するの撤廃)、甲午農民戦争(朝鮮)、日清戦争朝鮮南部でおこった甲午農民戦争をきっかけに日清両軍が朝鮮に出兵しておこった戦争、日本軍が勝利をおさめ、1895年に下関条約が結ばれる(~1995年) |
1895年 | 下関条約、三国干渉ロシア・ドイツ・フランスの三国が下関条約で日本の領土となった遼東半島を清に返すように要求、日本が従う(ロシア・ドイツ・フランス) |
1899年 | 義和団事件ヨーロッパの中国侵略に反発して義和団が山東省でおこした反乱、北京の列国公使館が襲われたため、日本やロシアなど8か国の連合軍が出兵して鎮圧した(中国)(~1901年) |
1902年 | 日英同盟義和団事件の後、ロシアが中国の満州を占領、韓国にも勢力をのばそうとしたため、利害関係が一致した日本とイギリスと日英同盟を結び、ロシアに対抗したを結ぶ |
1904年 | 日露戦争満州と韓国の支配権をめぐって日本とロシアの間でおこった戦争(~1905年) |
1905年 | ポーツマス条約日露戦争の日本海海戦などで勝利した日本とロシアがアメリカ合衆国の仲立ちにより結んだ条約 |
1910年 | 韓国併合1905年に日本が韓国を保護国とし、統監府を置いて外交権を奪った。初代統監は伊藤博文、1910年に韓国併合が行われ、京城(漢城)(現在のソウル)に朝鮮総督府を設置し、武力を背景とした植民地支配が行われた、大逆事件天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水らが逮捕され、翌年12名が処刑された事件 |
1911年(~清) | 関税自主権の回復1894年外務大臣陸奥宗光によって領事裁判権が撤廃、1911年第二次桂内閣の外務大臣小村寿太郎が日露戦争勝利による日本の国際的な地位の向上を背景に関税自主権の回復に成功する(条約改正) |